斗南藩百四十年祭と柴五郎
12日~14日まで、表記出席のためむつ市へ。約20年ぶり。
バスでの移動で、片道8~9時間(休憩含む)。途中、三沢市の広沢牧場跡の先人記念館を見学。
12日夜前夜祭。会津からは、市長はじめ当局側、議員、そして商工会議所会頭・副会頭はじめ会員数十名で合計100名近く参加。
13日、円通寺での法要とホテルでの記念式典。 後、むつ市の小学生25名が選抜され“会津探検隊”として今年の5月に調査したことの発表会。
そして外に出て、秩父宮両殿下御成記念碑のある斗南ヶ丘、会津藩上陸地、柴五郎居宅跡など見学。
円通寺の脇には立派な会館ができ、開拓で入植した柴家居宅の近くにまでテニスコートなど運動公園ができていた。20年の時の流れを感じた次第。
往路のバスの中で、「ある明治人の記録」を再読。
何度読んでも、五郎少年を預けたあとの母親はじめ一家の婦女子の自刃の場面では涙があふれる。
柴一家が斗南に入り、落沢(おとしざわ)の入植地は今ではすっかり森で、前に来たときもそうだったが、こんな悪条件のところでも開墾しなくてはならなかった当時の苦労に胸が痛くなる思いだった。
「ここは戦場なるぞ。」生きて汚名を晴らす、という“気概”は現代の飽食日本に生きるわれわれに最も足りないところかもしれない。
また、「ある明治人の記録」の編者・石光真人が第2部で重要なことを語っている。
義和団事件の祭、駐在武官だった柴五郎が全面に立って交渉し、それを乗り切った。その経験者・柴が、退役後第二次世界大戦を迎え、日本(及び日本軍)に厳しい見方をしていた。
人も国も奢(おご)って相手(国)を見下してはならない。
優位者、また勝者の立場で身勝手であってはならない。 というような考えは、自身がいくら幼年時代だったとしても戊辰戦争での敗戦を経験し、つらく厳しい思いをしているから身に付いたものと考える。
自分が辛い思いをさせられて、それを弱いものに転化するのが「いじめの連鎖」なのだが、そうしないのが会津武士道の真骨頂といえる。
文章からも、温厚・謙虚な人柄というのが伝わるが、現日新館館長の宗像精(ただし)先生がおっしゃるように「躾(しつけ)が人格にまで昇華した」人なのだと思う。
藤原正彦氏も著書「国家の品格」でいう。惻隠の情(そくいんのじょう)というのが武士道の本質、と。
柴五郎という方は、まさに会津武士道を体現した典型ともいう人だと思います。






