昨日の日経(板東俘虜収容所について)

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 6 月 29 日9:34 PM

日本経済新聞6月28日(月)、最終面の文化欄。

「寛容貫いた捕虜収容所 ・ 第1次大戦で『模範』に 敗者の痛み知る会津人所長」と題し、鳴門教育大学名誉教授の田村一郎氏が書いた文が掲載されている。

ドイツ兵が「天国のような」と評したという板東俘虜収容所を運営した当時所長であった松江豊寿自身は、日記や手紙のたぐいは残していない。ただ、松江自身の“周辺”の資料や娘さんへのインタビューから、その性格や人道的な運営をした背景など調べている。

柴五郎陸軍大将の「ある明治人の記録」にも触れ、会津人の敗者側の痛みを知り共感できる素地を書いている。以前このブログで、武士道の本質は惻隠の情を知ることとも書いた。別な言葉で言えば「武士の情け」であり、決して「切り捨てご免」が為政者側であった武士の本質ではない、と思う。

私は、一方で司馬遼太郎氏、及びその作品に対する評伝を読んでいる。

その中に、吉田松陰を主人公にした「山縣有朋の『世に棲む日々』という評論があった。奇兵隊がまず藩内で実権を握った後、当の長州藩内で上士階級をコケにし狼藉をはたらく退廃ぶりがあり、それが「官軍」に引き継がれ会津戦争後の傍若無人な占領政策となった。明治となり旧陸軍を創設した山縣有朋に対しても、単なる「出世欲が動機」だけで奇兵隊に入り、ついに「明治政府そのものをにぎる人物に」なってしまったと評している。(私は、昭和の入っての陸軍もこの系譜の上にある、とほぼ確信している。)

 

肩書きではなく、人間としての普遍的な価値である“他人を思いやる気持ち”が人道主義や国際主義につながるものであり、それが会津ゆかりの松江豊寿や柴五郎の生き様によって体現されたことに、胸の中で誇りに感じているものです。

フ~ム 菅家市長・・・・・?

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 6 月 21 日11:26 PM

市議会6月定例会開会中です。

私は、18日一般質問で登壇しました。神指城趾を活かした地域振興についてと、予算案をいきなり2~3月の定例議会で出すのではなく、その編成過程からもっと議会と審議すべきではと提起した。

 

神指城趾については、昨年、都市計画路線の通称若松西バイパス予定路線の(埋蔵文化財)試掘調査が行われた。その結果、築城途上で築城の方法やその過程がわかる全国的にも稀な、国指定にできる遺跡のランクであると、文化庁のお墨付きを得た。よって、将来にわたって保存すべき遺跡であり、現予定ルートの変更を望まれた。

予定路線とは、本丸跡と二の丸(高瀬の大木(ケヤキ)がある北東土塁と南東土塁)の間を抜けるルート。

しかし、地元住民から一旦決まったルート変更の説明に、とまどいが起きるのは無理はないと思う。

日本史的にも貴重な遺跡というのは、以前から識者からはいわれていた。しかし、昭和47年食料増産目的でほ場整備のため、四隅の土塁を除いて二の丸土塁の大半が崩され、前述した若松西バイパスの予定路線が昭和59年に都市計画決定された。今の考えでは何と無謀なことをといえるが、戦後、鶴ヶ城本丸にも競輪場があったことを思えば、史跡に対する文化財的価値としての考えは時代とともに変わる。

(だから、先見の明が必要なのだ。目先の利害だけで判断するのは貴重な遺産を壊すことになる。)

私は、「保存か開発か」二者択一、また対立的に考えるのではなく、史跡を活かした地域開発を訴えた。例として挙げたが、奈良県明日香村に適用されている「明日香村特別措置法」がある。これは、史跡の保存と地域住民の生活の安定と産業の振興が並び立つように昭和55年に施行された。これを例に、県や国に働きかければいい。

また、優れた自然景観や歴史遺産を買い取るナショナルトラスト運動というのがある。国指定史跡になれば、買い上げに80%の補助がでる。20%の負担分は(知床トラスト運動で地元の斜里町がやったように)、全国に寄付金(ふるさと納税制度も使える)を募る。著名作家にも名前を貸してもらうのもいいだろう。マスコミが取り上げ全国に流してくれることうけあいだと思う。

神指城趾は、史跡公園、農村公園、運動公園の複合公園が望ましいと考える。そして、いずれ近くを若松西バイパスは通るのだから、その道路周辺は地元の産物を売る商業施設や駐車場に整備すればいいと思う。

昭和50年代、下郷町の大内宿が国から伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に指定を受けるときも、家が自由に改築できなくなるという反対論もあった。当時の誰が、大内宿が中山道の妻籠・馬籠・奈良井宿以上の賑わいになると想像できたでしょう。

田んぼを、道路のためだけに売ったら(一時金が入るかもしれないが)、それっきり。

それより、せっかくの地域資源(神指城趾)を活かして、子々孫々まで続く永遠の地域振興を図った方が得策というもの。

 

そういう提案をし、市役所内にプロジェクトをつくる考えを質したが、すべて当の菅家市長の“想定外”のことのようで答は芳しくなかった。私は、2年前の6月の市議会でも神指城趾についてとりあげ、この若松西バイパスの路線変更を県に求めるよう(このバイパス整備は県の事業)いったが、計画通り早期開通を要望するという方針を変えなかった。

今回は、文化庁や県教育委員会の意向でこの考えは変えた。菅家市長はいろんな場面で会津若松の「歴史や伝統」の素晴らしさを語るが、語るだけでなく、実際こういう問題に当たったときに行動も一致してもらわないと「言行一致」の人とはいわれないのではないだろうか。

斗南藩百四十年祭と柴五郎

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 6 月 15 日11:27 PM
斗南(会津)藩士上陸の地 ・直立する石は慶山石、会津の方を向いている
斗南(会津)藩士上陸の地 ・直立する石は慶山石、会津の方を向いている
柴五郎一家居宅跡
柴五郎一家居宅跡

12日~14日まで、表記出席のためむつ市へ。約20年ぶり。

バスでの移動で、片道8~9時間(休憩含む)。途中、三沢市の広沢牧場跡の先人記念館を見学。

12日夜前夜祭。会津からは、市長はじめ当局側、議員、そして商工会議所会頭・副会頭はじめ会員数十名で合計100名近く参加。

13日、円通寺での法要とホテルでの記念式典。               後、むつ市の小学生25名が選抜され“会津探検隊”として今年の5月に調査したことの発表会。

そして外に出て、秩父宮両殿下御成記念碑のある斗南ヶ丘、会津藩上陸地、柴五郎居宅跡など見学。

円通寺の脇には立派な会館ができ、開拓で入植した柴家居宅の近くにまでテニスコートなど運動公園ができていた。20年の時の流れを感じた次第。

往路のバスの中で、「ある明治人の記録」を再読。
何度読んでも、五郎少年を預けたあとの母親はじめ一家の婦女子の自刃の場面では涙があふれる。

柴一家が斗南に入り、落沢(おとしざわ)の入植地は今ではすっかり森で、前に来たときもそうだったが、こんな悪条件のところでも開墾しなくてはならなかった当時の苦労に胸が痛くなる思いだった。

「ここは戦場なるぞ。」生きて汚名を晴らす、という“気概”は現代の飽食日本に生きるわれわれに最も足りないところかもしれない。

また、「ある明治人の記録」の編者・石光真人が第2部で重要なことを語っている。

義和団事件の祭、駐在武官だった柴五郎が全面に立って交渉し、それを乗り切った。その経験者・柴が、退役後第二次世界大戦を迎え、日本(及び日本軍)に厳しい見方をしていた。

人も国も奢(おご)って相手(国)を見下してはならない。
優位者、また勝者の立場で身勝手であってはならない。                                                                           というような考えは、自身がいくら幼年時代だったとしても戊辰戦争での敗戦を経験し、つらく厳しい思いをしているから身に付いたものと考える。

自分が辛い思いをさせられて、それを弱いものに転化するのが「いじめの連鎖」なのだが、そうしないのが会津武士道の真骨頂といえる。

文章からも、温厚・謙虚な人柄というのが伝わるが、現日新館館長の宗像精(ただし)先生がおっしゃるように「躾(しつけ)が人格にまで昇華した」人なのだと思う。

藤原正彦氏も著書「国家の品格」でいう。惻隠の情(そくいんのじょう)というのが武士道の本質、と。  

柴五郎という方は、まさに会津武士道を体現した典型ともいう人だと思います。

青森県むつ市へ

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 6 月 11 日11:19 PM

昨日10日、市議会6月定例会開会。

しかし、明日12日から14日まで、本市と姉妹都市の青森県むつ市で「斗南藩百四十年祭」開催のため訪問する。これには、本市から市長、教育長はじめ市当局、商工会議所関係、そしてわれわれ市議会と大挙して訪れる。

再読中の「龍馬がゆく」も第6巻目となり、龍馬のやった薩長同盟の大仕事と寺田屋で襲撃を受けた場面まで読み進んだ。歴史の変わり目のことを自分に置き換えて考える。龍馬のとった脱藩という行動は、藩という一つの立場で見るのではなく自由な立場で客観的にものごとを見ることができた。

“とらわれない”そういう目が一方で必要と思う。

しかし、「自由になった」分、立脚点というか後ろ盾がないことになるだけに影響力を行使するには苦労するだろう。それを龍馬は、商人的才覚(リアリズムとバランス感覚)と航海術を身につけることによって「事業」を成していった。「理と利」で人を説いた。

立脚点が違い、守るべきものが違えば争いになる。争う双方に大儀がある。その大儀が違うので、争いの結果敗れた方が誤っていたとはいえない。見方としては、かえって生き方として「筋」を通したと讃えられることもある。

会津藩のたどった道に思いをはせながら、新しい時代の扉を開けていきたい。その一つが、全国の地方議会で先鞭をつけようとする我が議会である。

さまざまな分野で会津から“合図”を発していければいい。

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