中世山城の里・瀧谷
22日、お彼岸で生家のある滝谷へ。
只見川筋では、(江戸時代は)現柳津町までが会津藩領、滝谷のある現三島町からが天領(通称・御蔵入り)
それ以前の中世は、現柳津町までが芦名領。滝谷から奥が山ノ内領。
山ノ内氏の本城は、現金山町横田。
滝谷、桧原、西方、沼沢、川口など山ノ内氏の七家の一族がそれぞれ山城を構えていた。滝谷は、芦名領との境で最前線の山城。
芦名とは、同盟を組んだり敵対したり。(もともとは、どちらも源頼朝から領地を与えられた同格の家柄)
伊達に攻められた時は、芦名と同盟を組んだが(川口など一族の一部は伊達と内通)、その後、秀吉の「奥州仕置き」で、領地を召し上げられる。
江戸初期に、若松で「稽古堂」を創設した横田俊益は、桧原山ノ内氏の出。(本家の地である横田を姓にした)
滝谷山ノ内氏は、帰農。江戸時代は郷頭。ある時期は、御蔵入り五万石の郷頭筆頭の人物も排出。子孫は今も住んでいる。(摺上原での伊達軍との合戦では、その時の当主は討ち死にする)
沼沢山ノ内は、会津松平家に仕官。沼沢出雲守となり、千石を拝領し番頭(ばんがしら)=軍事職の筆頭に出世。屋敷は、宮泉銘醸前の現若松タクシーの場所。
樺太出兵など出陣の時は、いつでも(中世の主従の関係が切れている)旧領民が大挙して付き従った。(忠誠連判状を押していた)
こんな歴史のあるところで、一端を紹介しました。
「会津は広くて深い」とは、県立博物館館長の赤坂憲雄先生の言葉です。



