さらに前進するという確信!

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 7 月 28 日10:25 PM

26日(月)~27日(火)と会津若松市議会議会運営委員会の行政調査で、東京都多摩市と神奈川県茅ヶ崎市へ。調査内容の主なものは、決算委員会のあり方と市議会による「事業評価」のし方。

どちらの市も、中心的に担ってきた議員に対応していただく。わが市でもそうだが、議会改革案件については、議会事務局の職員やだけでなく議員が対応することによって実体験が聴け、議員同士意見交換することによって論議が深まる。

多摩市は、議員間、あるいは会派間のボーダーが低く、ぎりぎりまで話し合うという風土がある。まさに「合議体としての議会」のお手本のような議会運営をしている、と注目していた。決算委員会も議長と議会選出監査委員を除く全議員で構成し、議員による事業評価も平成15年度からはじめ、執行部側の事業評価と対比させ翌年度の予算編成に反映させている。

茅ヶ崎市議会も、多摩市議会に習い1年半の研究検討の末、昨年度からはじめた。事業評価のマトリックス表や決算委員会の日程の取り方など参考になった。

こにょうな議員による事業評価が、注目を浴びた「事業仕分け」と同じ効果をもたらすものだ。

まだ、数ある自治体議会の中では与党・野党意識から脱却できず、ある市の「与党」会派の議員などは、市長を「守る」のが自分たちの仕事だと思っている人もいるようだ。それでは自ら議会を、市長の付属機関である審議会「程度」に落とし込めていることになる。

こういう考えでは、地方自治法が「想定」している議会の役割を果たしていないことになるのだから、市民が議員報酬及び数は多いと思うのも無理はない。日当でも当然だ。

 

しかし、今回調査に赴いた多摩市や茅ヶ崎市のように、着実に改革を進めている議会も増えてきた。わが市議会は、議会基本条例に基づき「市民意見を基に政策形成を図る」という姿勢では、一歩他の議会より進んでいるかもしれないが、予算決算委員会のあり方や諸条例づくりなど、これから改革すべき大仕事が沢山ある。

しかし、着実に具現化していくと感じている。それは、わが市議会の多くの議員のベクトル(方向性と長さ)が合ってきているからだ。

農商工観学フェア

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 7 月 25 日10:51 PM

本日、会津アピオスペースで表記の第1回フェア。実行委員会が組織され、中小企業家同友会会津地区が主管。

暑い中、60以上の企業ブースが出店し、各企業のアピール、飲食、子ども向けの工作体験コーナー、また就職応援、会津大学生からのビジネスモデル企画コンペなど盛りだくさんの内容で開催されました。3千名以上の来場者があったと思われます。

私は、この実行委員会の中の“ビジネス交流部会長”を命ぜられ、主に会津大学側との担当窓口を担いました。大学では「IT日新館」と称し、会津の「地域資源」を、学生の若い感性で起業化をすすめるような授業が組まれています。それと、今回のフェアがコラボする形で催したところ、205件の応募がありました。今日はその中から、事前に5人がノミネートされたものを審査員及び観客の前でプレゼン発表してもらい、その後表彰式が行われました。

いずれも甲乙つけがたいアイディアが出されました。

最優秀には「みそば饅頭」の商品化とそのパッケージデザイン、販売方法などを提案したものが選ばれました。その他、ウェブ上に貼られた会津の名所の写真の場所に出向いて写真を撮り、そして周囲を巡る、ネットと体験型を結びつけたものや、地酒や地ビールのフェスタを鶴ヶ城で行い「サケワングランプリ」を決めるといったものなど、審査員の質問にも的確に答えながら、爽やかな感動と会津の地域力を高められるという自信を与えてくれるような、大変有意義な「学生コンペ」になりました。

また、学生のプレゼンの中には、以前このブログでも紹介した多摩大学教授「図形教の教祖」久恒啓一先生の授業もちゃんと活かされていると感じました。プレゼン能力がアップされていたことは間違いありません。

今後の製品化、起業化について早速関係者と話しあっていきたいと思っています。

本当に、この後の展開が楽しみです。

訂正とお詫び

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 7 月 18 日8:33 AM

昨日の日記ですが、語句の訂正をいたします。

「一校目」 → 「初稿」 に

 

7月8日 「“図解教の教祖”久恒啓一先生”」の日記では、下から5行目

「学生時代こんな『事業』を」 → 「授業」 に訂正します。

 

7月6日の「気負わずに 着実に」の日記では、日付を1ヵ月間違っていました。

会津掃除に学ぶ会年次大会は、6月5日(土)ではなく、7月3日(土)に

会津エンジン05は、6月6日(日)ではなく、7月4日(日)でした。

 

以上、訂正してお詫び申し上げます。(今後はさらに気をつけます。)

校了と一校目原稿

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 12:00 AM

本日、午前中に会派報「公志会だより」が校了した。来週初めに仕上がり、22日の新聞折り込みで全戸配布される。

一方、「目黒章三郎ニュース」の原稿を手渡す。今月末か来月初めの仕上がりとなる。こちらは、ポスティングで各戸配布の予定。

双方、地方議会のあり方、議会改革の方向性などを一面に載せた。今、全国的に地方議会からもその研究者からも注目を集めている会津若松市議会の「議会改革」が、どういうもので何を目指しているのかの理解の一助になればと思って掲載した。それが、ひいてはこの地における住民自治の進展、民主主義の醸成につながればと願うものである。

「図解教の教祖」久恒啓一先生の影響を受け、まだまだ不十分ながら図解もどきで表してみた。訴求力という点で、いくらかでも発揮できているだろうか。今後もチャレンジしていきたい。

ただ、自分でいうのも何だが、私の文章は(よく練られたものは)臨場感があってなかなかおもしろい、と思う。

どうか見てやってください。

いただけなかった福岡政行先生の講義

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 7 月 12 日11:08 PM

7月4日(日)、エンジン05で会津さざえ堂をテーマにした講座の司会をしたことは、このブログで書きました。          午後になって、テレビでおなじみ、高名な政治評論家で大学教授の福岡政行先生の講座を受講しました。

今月22日に、私の所属する会派・公志会の会派報 「公志会たより」が発行となり新聞折り込みされます。また、私の市政だより「目黒章三郎ニュース」も今月末に発行予定です。(今、思い出しましたが7月28日が私の誕生日ですので、この日にしようと思います。(笑い))

福岡先生の講義がいいヒントになりました。(反論じみて書いたといってもいい)

福岡先生の講義は、メインは参議院選挙でした。それについては特にいうことはありません。                    4分の1くらいを、議員、及び公務員批判に当てていました。十把一絡げで、「人数が多い、報酬が多い」という論調。この論を否定するつもりはありません。しかし、政治学者ならこれだけでいいのか・・・・と思います。

地方議会のあるべき姿を聴衆に説き、そして今各地で胎動している議会改革の事例を語り、その上で旧態依然たる議会を批判するならもっと説得力があったことでしょう。著名な首長を持ち上げ、議会を悪くいうだけなら、まさにテレビのワイドショー向けで学者のそれではないと思います。

「日経グローカル」や「ガバナンス」、また議会改革のフォーラムなどに登場してくる地方自治を研究されている先生方は、きちんと調査をされ、その上で評価をし、進むべき方向を指し示しておられます。日本の民主主義を前進(また、熟成)させる役割が、学者にはあると思います。

会津若松で講演されるなら、会津若松市議会の「議会改革」について、もう少し調査してきてほしかった、と思いました。まぁ、お忙しいお人で、さらに参議院選挙の結果予想がその時の最大関心事(また、福岡先生の“売り”)でしょうから、しょうがないか・・・・・、とも思いますが。

でも、私にとっては、今の「分権」時代の議会の役割を改めて問う「目黒章三郎ニュース」に掲載する記事を書くきっかけづくりになりました。

“図解教の教祖”久恒啓一先生

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 7 月 8 日9:05 PM

昨日7日、会津大学「IT日新館」の講義で、“図解教の教祖”とあだ名のある久恒啓一先生の講義を聴く。

久恒先生は“現代の志塾”多摩大学教授。元日本航空の社員で、県立宮城大学の開設と共に初代学長野田一夫先生に誘われて先生となられた。私は、久恒先生の講義を本年2月に東京で聴く機会があり知古を得た。(また、私の三男がこの四月に多摩大学に入学した。)

5月に会津大学のT先生とK先生を訪ねたとき、「学生のプレゼン能力を高めるため図解の授業を考えている」という話しになり、私が久恒先生とちょっとした知り合いで、ということで仲立ちすることになった。そんなわけで、今回学生に混じって講義を聴くことができた。

改めて、文章と箇条書きと図解の訴求力の差、図解に表すことに要する考える質量の差を思った。(私にとって、図解を多用するにはパソコンをもっと自由に操る能力を身につけることが課題だ。)また、久恒先生から自分の考えを言うとは、ある論(考え)に対して、①わかったこと②疑問に思うこと③反論することの三つをいうことだ、との話しには合点がいった。それも図解で表すのがよい。

講義にお誘いした、会計事務所のKさんも大満足。「学生時代こんな事業を受けていたら、もっと勉強したのに・・・」と。同感。

講義後、久恒先生、T先生、K先生と某居酒屋で懇親会。私は、最近「控酒」しているが、昨晩ばかりは夜が更けるまで「図解」を肴に飲んだ。いっぱいやりながらのゼミのようで、いいひとときを過ごしました。

気負わずに 着実に ・・・・ 

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 7 月 6 日11:20 PM

気負わずに 着実に などというタイトルだと、私でないような・・・・

6月5日(土)は、日本を美しくする会・会津掃除に学ぶ会の第11回年次大会が会津高校を会場に開かれました。

いつもトイレのリーダー役を仰せつかるのですが、今回は生徒の昇降口(玄関)だった。10数人のまとめ役で、2時間で天井及び蛍光灯から、窓、ロッカー、備え付けの掃除用具入れ、そして床までキレイにする。班の中に現職の会津高校の若い先生がいた。作業終了後の反省会で「玄関掃除などは30分くらいで終わるものと思い、2時間をどう使うのか疑問に思っていましたが、徹底してやれば時間が足りないほどでした。」といっていました。

リーダーとしては、用具の効果的な使い方、時間配分に気を使うのは当然として、初めての参加者が多い中でどうチームワークを形成するか、終了後の達成感・満足感を味わってもらえるような指揮ぶりをどう発揮するかが問われます。

幸い、皆さんがいい汗をかいたと感想を述べていただきましたので、安心しました。

 

6日(日)は、エンジン05が会津大学で。実行委員会からさざえ堂の講座を設けてくれと依頼されていて、会津さざえ堂を愛する会として、所有者の飯盛氏、顧問で建築家の柴崎会津大学短大部準教授にお話しを伺うという形で、事務局の私が司会をしました。(民友、民報両新聞にも掲載されていた。)

改めて、二重螺旋という構造の奇抜さ、不思議さ。仏教施設としての三巡り(回り)、6本の心柱と六角形という数字の意味、時間、季節による光や風のながれ、飯盛山山域の持つ意味・・・・・等々、「魅力と秘密」を語っていただきました。しかし、まだ「魅力と秘密」が語り尽くされたり解き明かされたりしたわけではありません。

全国の著名な建築家が、日本で一番注目し“好きな”建築物として会津さざえ堂を挙げています。(建築雑誌カーサブルータスによる) 改めて、世界に唯一、国宝級の木造建築物(現、国重文)があるこの地に住んでいることを誇らしげに思います。だから、もっと知りたいという思いが募ります。

本体の保存を考えながら、第一歩として周辺の整備が動き出すようです。

昨日の日経(板東俘虜収容所について)

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 6 月 29 日9:34 PM

日本経済新聞6月28日(月)、最終面の文化欄。

「寛容貫いた捕虜収容所 ・ 第1次大戦で『模範』に 敗者の痛み知る会津人所長」と題し、鳴門教育大学名誉教授の田村一郎氏が書いた文が掲載されている。

ドイツ兵が「天国のような」と評したという板東俘虜収容所を運営した当時所長であった松江豊寿自身は、日記や手紙のたぐいは残していない。ただ、松江自身の“周辺”の資料や娘さんへのインタビューから、その性格や人道的な運営をした背景など調べている。

柴五郎陸軍大将の「ある明治人の記録」にも触れ、会津人の敗者側の痛みを知り共感できる素地を書いている。以前このブログで、武士道の本質は惻隠の情を知ることとも書いた。別な言葉で言えば「武士の情け」であり、決して「切り捨てご免」が為政者側であった武士の本質ではない、と思う。

私は、一方で司馬遼太郎氏、及びその作品に対する評伝を読んでいる。

その中に、吉田松陰を主人公にした「山縣有朋の『世に棲む日々』という評論があった。奇兵隊がまず藩内で実権を握った後、当の長州藩内で上士階級をコケにし狼藉をはたらく退廃ぶりがあり、それが「官軍」に引き継がれ会津戦争後の傍若無人な占領政策となった。明治となり旧陸軍を創設した山縣有朋に対しても、単なる「出世欲が動機」だけで奇兵隊に入り、ついに「明治政府そのものをにぎる人物に」なってしまったと評している。(私は、昭和の入っての陸軍もこの系譜の上にある、とほぼ確信している。)

 

肩書きではなく、人間としての普遍的な価値である“他人を思いやる気持ち”が人道主義や国際主義につながるものであり、それが会津ゆかりの松江豊寿や柴五郎の生き様によって体現されたことに、胸の中で誇りに感じているものです。

フ~ム 菅家市長・・・・・?

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 6 月 21 日11:26 PM

市議会6月定例会開会中です。

私は、18日一般質問で登壇しました。神指城趾を活かした地域振興についてと、予算案をいきなり2~3月の定例議会で出すのではなく、その編成過程からもっと議会と審議すべきではと提起した。

 

神指城趾については、昨年、都市計画路線の通称若松西バイパス予定路線の(埋蔵文化財)試掘調査が行われた。その結果、築城途上で築城の方法やその過程がわかる全国的にも稀な、国指定にできる遺跡のランクであると、文化庁のお墨付きを得た。よって、将来にわたって保存すべき遺跡であり、現予定ルートの変更を望まれた。

予定路線とは、本丸跡と二の丸(高瀬の大木(ケヤキ)がある北東土塁と南東土塁)の間を抜けるルート。

しかし、地元住民から一旦決まったルート変更の説明に、とまどいが起きるのは無理はないと思う。

日本史的にも貴重な遺跡というのは、以前から識者からはいわれていた。しかし、昭和47年食料増産目的でほ場整備のため、四隅の土塁を除いて二の丸土塁の大半が崩され、前述した若松西バイパスの予定路線が昭和59年に都市計画決定された。今の考えでは何と無謀なことをといえるが、戦後、鶴ヶ城本丸にも競輪場があったことを思えば、史跡に対する文化財的価値としての考えは時代とともに変わる。

(だから、先見の明が必要なのだ。目先の利害だけで判断するのは貴重な遺産を壊すことになる。)

私は、「保存か開発か」二者択一、また対立的に考えるのではなく、史跡を活かした地域開発を訴えた。例として挙げたが、奈良県明日香村に適用されている「明日香村特別措置法」がある。これは、史跡の保存と地域住民の生活の安定と産業の振興が並び立つように昭和55年に施行された。これを例に、県や国に働きかければいい。

また、優れた自然景観や歴史遺産を買い取るナショナルトラスト運動というのがある。国指定史跡になれば、買い上げに80%の補助がでる。20%の負担分は(知床トラスト運動で地元の斜里町がやったように)、全国に寄付金(ふるさと納税制度も使える)を募る。著名作家にも名前を貸してもらうのもいいだろう。マスコミが取り上げ全国に流してくれることうけあいだと思う。

神指城趾は、史跡公園、農村公園、運動公園の複合公園が望ましいと考える。そして、いずれ近くを若松西バイパスは通るのだから、その道路周辺は地元の産物を売る商業施設や駐車場に整備すればいいと思う。

昭和50年代、下郷町の大内宿が国から伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に指定を受けるときも、家が自由に改築できなくなるという反対論もあった。当時の誰が、大内宿が中山道の妻籠・馬籠・奈良井宿以上の賑わいになると想像できたでしょう。

田んぼを、道路のためだけに売ったら(一時金が入るかもしれないが)、それっきり。

それより、せっかくの地域資源(神指城趾)を活かして、子々孫々まで続く永遠の地域振興を図った方が得策というもの。

 

そういう提案をし、市役所内にプロジェクトをつくる考えを質したが、すべて当の菅家市長の“想定外”のことのようで答は芳しくなかった。私は、2年前の6月の市議会でも神指城趾についてとりあげ、この若松西バイパスの路線変更を県に求めるよう(このバイパス整備は県の事業)いったが、計画通り早期開通を要望するという方針を変えなかった。

今回は、文化庁や県教育委員会の意向でこの考えは変えた。菅家市長はいろんな場面で会津若松の「歴史や伝統」の素晴らしさを語るが、語るだけでなく、実際こういう問題に当たったときに行動も一致してもらわないと「言行一致」の人とはいわれないのではないだろうか。

斗南藩百四十年祭と柴五郎

カテゴリー: 日記 — 投稿者: 目黒章三郎 — 2010 年 6 月 15 日11:27 PM
斗南(会津)藩士上陸の地 ・直立する石は慶山石、会津の方を向いている
斗南(会津)藩士上陸の地 ・直立する石は慶山石、会津の方を向いている
柴五郎一家居宅跡
柴五郎一家居宅跡

12日~14日まで、表記出席のためむつ市へ。約20年ぶり。

バスでの移動で、片道8~9時間(休憩含む)。途中、三沢市の広沢牧場跡の先人記念館を見学。

12日夜前夜祭。会津からは、市長はじめ当局側、議員、そして商工会議所会頭・副会頭はじめ会員数十名で合計100名近く参加。

13日、円通寺での法要とホテルでの記念式典。               後、むつ市の小学生25名が選抜され“会津探検隊”として今年の5月に調査したことの発表会。

そして外に出て、秩父宮両殿下御成記念碑のある斗南ヶ丘、会津藩上陸地、柴五郎居宅跡など見学。

円通寺の脇には立派な会館ができ、開拓で入植した柴家居宅の近くにまでテニスコートなど運動公園ができていた。20年の時の流れを感じた次第。

往路のバスの中で、「ある明治人の記録」を再読。
何度読んでも、五郎少年を預けたあとの母親はじめ一家の婦女子の自刃の場面では涙があふれる。

柴一家が斗南に入り、落沢(おとしざわ)の入植地は今ではすっかり森で、前に来たときもそうだったが、こんな悪条件のところでも開墾しなくてはならなかった当時の苦労に胸が痛くなる思いだった。

「ここは戦場なるぞ。」生きて汚名を晴らす、という“気概”は現代の飽食日本に生きるわれわれに最も足りないところかもしれない。

また、「ある明治人の記録」の編者・石光真人が第2部で重要なことを語っている。

義和団事件の祭、駐在武官だった柴五郎が全面に立って交渉し、それを乗り切った。その経験者・柴が、退役後第二次世界大戦を迎え、日本(及び日本軍)に厳しい見方をしていた。

人も国も奢(おご)って相手(国)を見下してはならない。
優位者、また勝者の立場で身勝手であってはならない。                                                                           というような考えは、自身がいくら幼年時代だったとしても戊辰戦争での敗戦を経験し、つらく厳しい思いをしているから身に付いたものと考える。

自分が辛い思いをさせられて、それを弱いものに転化するのが「いじめの連鎖」なのだが、そうしないのが会津武士道の真骨頂といえる。

文章からも、温厚・謙虚な人柄というのが伝わるが、現日新館館長の宗像精(ただし)先生がおっしゃるように「躾(しつけ)が人格にまで昇華した」人なのだと思う。

藤原正彦氏も著書「国家の品格」でいう。惻隠の情(そくいんのじょう)というのが武士道の本質、と。  

柴五郎という方は、まさに会津武士道を体現した典型ともいう人だと思います。

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